ものは、つねに<現在>である。ものの現在性は、意識しなければ見えないものである。
だから、ものを見ようとするとき、ものの現在性を直視しなければならない。
ものの隠れたリアリティーを見ることは、世界の成り立ちを知ることでもある。
菅 木志雄 2014 (東京都現代美術館 フライヤーより)
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この数年、バーチャルなネットワーク社会に悶々としていた。だからこそ、作品に添えられていた以下の言葉を、なんども反芻した。
「菅の作品は、フィジカル(現実の身体的)な複雑さと実感を伴った世界との接触を求めるわたしたちの内部欲求を反映している」「わたしたちはただ表面的につながっているのではなく、個々が確かな存在として全体にかかわり、空間に作用しています-MOT
FLYERより抜粋-」
菅 木志雄は「もの派」の代表作家。当展には70年代のインスタレーション、制作のノート、記録映像が展示されている。概念思考と物質を結びつけた作品は、イタリアの「アルテ・ポーヴェラ(例:写真下作品など)」、そして日本の「もの派」が挙げられる。
※アルテ・ポーヴェラ(1960年代後半の伊の美術運動であり、私の好きな作品群。渡伊の隠れた理由でもある)
展示内容にはもちろん大満足。批評する身分でもなんでもない私は、感想も書かないし、書けない。
その代わり。15の青年が菅の作品を理解している姿、あるいは理解しようとしている姿(うしろ姿でわかるものだ)に感心した。なによりアンケートを真面目に書く姿は、勇ましくさえ感じた。会場に唯一の青少年。もっと中・高校生にも鑑賞してもらいたい作品群だ。
(2015.01.25 SUN / at MUSEUN OF CONTEMPORARY ART TOKYO)