昨年にひきつづき、今年も発達性ディスレクシアの子どもたちとアートプロジェクトを行うためのミーティング。
NPO法人を主宰し、たくさんの子どもを支援している言語聴覚士の先生をはじめ、ママスタッフ、専門スタッフ、学生スタッフなど大勢とタッグを組んで臨む。
ミーティングを行うたび、先生がママスタッフとの食事会まで開いてくださり、ゲラゲラ笑いながら交流の時間を設けてくださる。子どもの「得意」や「苦手」を気負いなく話してくださるので、大きな学びになっている。
実は、新プロジェクトプランをスケッチブックに準備していったのだが、ある子どもから「お金を2回はらったらタネさん2個できますか?」とか、その他からも「タネさん楽しみ!」という声があったようだし、学生スタッフさんもあの時のタネさんを自分のカバンにつけてくれていたりと、思わず涙が出てしまうほど嬉しい話を聞いたので、それならば!と、新プランは開くこともないまま、タネさんプロジェクトの再びということになった。
「発達性ディスレクシアって いったいどんなこと?」(NPO法人発達サポートネット バオバブの樹より)
1枚の紙で自由に練習しよう。失敗したって紙なんだから!
のぞきこむと、練習の紙には文字も絵もかいてあり、ここに「苦手」より「好き」が現れていると感じて嬉しかった。
誰だって苦手にトライする時ってドキドキするし、イヤだなと思う。ワークショップにありがちなことだが、「さあ!みんなでやりましょう!」と、いきなりワイワイやられても私はひいてしまうタイプだ。得意な人はいいけどね、やっぱり苦手だったらイヤになる。私だったら、紙一枚でもプライベートなエリアと時間が欲しいと思ったのだ。
この「練習」という考え方に付随して、ママスタッフからの提案で「練習タネさん」も配られた。即効性の第一筆目に勢いがあり良しとする場合もあるが、緊張が感じられる線になってしまうことだってある。これはどちらが好みか個性を尊重したい。何よりも安心感を優先したい。誰にだって嬉しかったりする。
国、年齢、障がいの有無などにより、私が想う(行いたい)「アートワークショップ」の概念は変わらない。
みんな一緒にワイワイが「アートワークショップ」という風潮があるが、本意には工房という意味があり、個人のスキルを見つめるチャンスなのだ。複数が同じ工房(場所)に集まり、個人のスキルを披露したり、関連することで話しをしたり、そうしてものづくりの価値を広げる。本来の意味を意識すれば、ボーダレスなのだ。
個人の得意を強化するものは「スペシャリティワーク」であり、別なものだと思っている。
近ごろのこどもワークショップの中には、どうも合点いかないものがあったので、それはなぜなのか自分で明確にさせたかった。それを少しずつ分からせてくれているのが、このNPO団体との出会いだった。
「みんな」という相対的な見方でなく、「あなた」という絶対的な見方をし、「あなた」が「みんな」と交わった時に、個性同士が仲良くできるのかできないのかの体験だと思う。本来個性なんかぶつかりあいで、仲良くできやしない。みんなでこんな大きなものつくれたね、すごいね!ではないと思っている。大きなものを一緒につくっても、「あなた」という部分を見つめてあげて欲しい。「あなた」が「みんな」を支え「みんな」も「あなた」を支えたというう考え方で、アートピースが成り立っていると、個性の強い子にはこっそり耳元で伝えてあげて欲しい。
2014年ボローニャにて
※「こどもPRJ. たねさんプロジェクト」についてはこちら⇒★
我が子の通う学園は、幼~高まで「共に生きる」という学園方針を掲げており、3歳からこの中にいる我が子は、対象の保 護者や先生から、分かりやすい言葉でその子の「苦手」や「個性」を説明してくれる。ゆえに一般社会のそれとは比較できないほど「障がい」という括りの意識
が薄い。小学生になると「ある神経が働くのをさぼっている」とか「苦手」という理解、中高生になると「個性」という言葉を自己で確立し、共に生きる意味を 知り、時にはその辛さも知るようになる。
ただただ「分かり合おう!」などと巷はいうけれど、あれは無責任すぎる。「なにを?」「どうやって?」「こちらだけが分かればいいの?」…そうではない。きちんと専門的な先生や、本人から、その「個性」「特徴」「苦手」などを知ることから始まり、ぼくの「苦手」やわたしの「苦手」と同じ枠で語れる社会になって欲しいと願う。
もちろんディスレクシアだけでなく、あらゆる障がいといわれる「個性」や「苦手」を、大人だけでなく子どもたち同士で深く知り合わなくては、住みやすい社会には変わっていかないだろう。
「苦手」の意味、考え方を革める必要もある。
その意味を納得してこそ「共に生きる」に行きつくのだと思う。
いただいた会報誌をよんで感涙した。
自らディスレクシアと歩み生きる筆者の言葉には、生きるものとしての基本形成がくっきりと見えるのだ。なぜこんなにも理解しやすい言葉の羅列ができるのだろうか。それに対する感涙。決して、かわいそうという感情ではないことを強調したい。
なぜ私たちには「苦手」を語り合う文化が少ないのだろうか。
わたしの子どもワークショップは、「がんばって得意を探す」とか、「がんばって苦手を克服する」ものにしたくない。早教育やエリート教育の反対をいきたい理由はここにある。「ほら得意よねこれ!」「ほら元気よくね!」とか「ほらみんなで!」みたいに、お節介に大人が宝物を先に探してしまうような時間にはしたくない。
彼らの悩む「苦」が、「少し楽」というレベルに上がるくらいの自由な時間であればと、願う。
必要であれば大人や仲間をきっかけに、彼らの旨味を少しだけこぼして欲しい。
それが本来の子どもワークショップなのではないか。
初夢で大きなおおきな虹の夢をみた。
その後、春に行ったこの団体の子どもワークショップ終了後、湘南の海をおおきくまたぐ虹をみた。みんなで海の虹をみた。皆の顔がすがすがしかった。自分の「苦手」を光源に照らすことで、虹という人を仰がせるような現象がつくり出せるのかもしれない。虹をみながらそう思った。
この時、ある決心がうまれた。もっと理解したい。
何年先になってもいいから、共に生きる子どもワークショップができたらいいな。
無理やり体裁だけで行い「苦手」や「個性」をつぶしてしまう危険は絶対に避けたい。
子どもワークショップといっても、まだまだどこかに隔たりを感じる。
わたしの悶々としていた理由はここにあったのだ。
ディスレクシアの存在はもちろん、発達障がい全般の苦手や得意をもっと知りあって、「学び」を守ってもらえるような学校、社会になることを願っている。未来をつくるのは今の子どもたちなのだから、今の子どもたちから積極的に理解を深めて行ってほしい。もっと知りあって海に虹をかけようよ!
(次回のワークショップは7月末)