その国に住むからこそ知ること
少なくともよその国で生きるならば、言葉を狭め「ひとりでない世界にいる」にいるならば、そこで興味や共感を抱きだれかに寄りそうならば、たなびくのでなく、最低限に互いの文化を知るくらいの好奇心、源を知ろうとするホンモノ好奇心が欲しい。
無宗教者であるが想うこと
今度の日曜日は「パスクア(伊語)」(イースター:復活祭)。あちらに連絡したいことがあるのだけれど、イタリアのみなさんはイースター休暇に入るので、休暇が明けたらにしようかな?もしくは「BUONA PASQUA!」(復活祭おめでとう!)と季節のあいさつがてら連絡しようかな?などスケジュールを遠方より思惑する。
めでたい「復活」だけが注目される日本だが、これは「受難」の金曜日があってこそ。前夜の木曜日は、かの有名な『最後の晩餐』を弟子たちと持った日であり、翌日キリストは十字架にかけられる。木曜日より十字架には紫布がかけられ復活の日曜まで鐘も鳴らない神聖な3日間であることを教えてもらったことがある。
受難あってこその復活!
もちろんイタリアだからってみんなが熱心な信者ではない。けれども信仰行事にバカ騒ぎしたり非難するわけでもない。なぜならば信者であるか否かは別として、宗教という事実と歴史が目の前にあるからだと思う。
現に休暇を喜ぶ人々は大勢いるし、日曜の「パスクア(イースター:復活祭)」は転じてごちそうが並び、口々に「復活祭おめでとう!」のあいさつが街で飛びかう。すっかり気候も良くなり気分も開放的になった彼らは、復活祭明けの月曜日「PASQUETTA」はピクニックなど外に出かけようよ!とすっかり復活するわけである。
すべては「復活」は「受難」を越えて。
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本日は「最後の晩餐」でも思いながら
キリストが十字架にかけられる前夜『最後の晩餐』の今夜。むかしは予約もなく鑑賞できたあの名画。住んでいたアパートに帰る途中で寄っては観たものだ。大きな名画を薄暗い空間で見上げながら「復活だけを望むことなかれその前の受難を乗り越えよ」と自分に激を飛ばしていたあの時を思い出しながら。