時として我が家のテーブルにはひしめき合うように友人が集い、彼らとごちそうをつつき、料理に合うお酒をいただく。友人は楽しい時間を運んでくださる。30年来の「渋いチーム」は定期的に集まってくれ、我が家の「青春」という名の青年は大人たちの食べっぷりや飲みっぷり、爆笑と時にマジメに論をかわすその姿を、じっとみつめてきた。
きっかけは、我が家に乳飲み子がいたため(今や青年)、「食いしん坊」という(あるいはノンベエともいう)20代からの仲間たちが宴会をホームパーティにシフトしてくれたことから始まったように思う。世の中の少子化を映すように、我が家の1名ぽっちがベベであり、少年になり、そのまま青年になった。
さて、先日は一転して「若いチーム」(青春の友人でなく仕事仲間)8名とちょっと古びた我ら2名+お預かりしているワンコの総勢11名でわいわいやった。2組の結婚と1名の誕生日のお祝いおめでとう。年齢だけが20も30も下回るが、共通点は、みんな食いしん坊。どっさり飲み食いする潔さ、好き嫌いなくわしわしと食べ、おいしい一滴を丁寧にグラスに残らず飲み干してゆく。何本の缶や瓶を開けたろう。中には2才に満たないベベ1名やワンコ1匹。集えや踊れ!
イタリアでは互いの家を行き来して食事会をする。あの国が好きになったひとつの理由は、気持ちのよい食べっぷり。若くても渋いオトナでもよく食べ、よく飲む。「積極的に」という言葉が適切だ。そして飲食に関して遠慮をするほうが失礼だとする食文化が気持ちよい。(病やアレルギーはもちろん、宗教的な食生活や菜食主義などの食制限は逆に強く主張する)
師匠の自宅に居候中、師匠とその息子とわたしの3人で普通の食事をとっていたある日、文化的な差異を改めて実感した。「大皿に料理が少しずつ残るのはなぜなのか?」と師匠の息子が言った。「遠慮だったり譲り合うのは寂しい気分になるからいつもボクが最後をさらう」と。その理由が遠慮ではなく満腹であっても、なにかしらの意思を表するべきだったと、ビリビリとショックが走った。彼は息子と言ってももう立派な成人だが、子というのは親やその友人らの食べっぷりをじっと見つめ評価しているのかもしれない。
子どもは「食いしん坊」を尊い目で見ている。普段の食事から、できるだけ同じものを食べ、安定量を食べる。カラダにいいとか悪いとか、太る痩せるという話ばかり親がするのはナンセンスであろう。まずおいしくいただく。そこから社会問題の解決や運動の必要性などが考えられるオトナになりますように。そして行く手は、世界の食料難や農業搾取が防げる地球をつくって欲しい。
職業柄、器はたっぷりある。洗った器は大テーブルの上にすべて並べて乾かし、翌朝もとの位置に収納する。そんな祭りの残り香を何十回と見てきただろう青年がポツリと言う。
「年の離れたチームも、年の近づいたチームも、どちらもとても魅力的な人ばかりだ」と。「みんなよく食べて飲んでとても気持ちいい」「そんな人から放たれる話はとても面白く尊敬できるオトナばかりだ」と。しかもデキルヒトというのは、年齢に隔たりをもたず対等に、そして真剣に話をしてくれるという。とてもうれしかった。
わたしの自慢は料理や器なんかでない。1才から80年ちかい幅の「食いしん坊」である友人たち。そして、青春はその「食いしん坊」を見て、食いしん坊に育った。
(当記事は期間限定の公開記事です)
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