旅人というと思い出す童話があって、あれはなんという題名だったか。思い当たるキーワードで検索をかけてやっと見つけました。
ずっと幸せでいるのが一番です。
それからわたしたち2人が生きている限り
健康で毎日食べるパンがありますように。
3番目に願うことは、
なにを望んだらいいのかわかりません
「貧乏人と金持ち」 グリム童話
ミラノに住む友人が、リチャード・ジノリの骨董のお皿を見つけてプレゼントしてくれました。建築の父ジオ・ポンティがアートディレクションした作品で、たしか私は彼女に興奮してこのお皿の話をしたような。それとも彼女はなにかから察してくれたのでしょうか。いずれにして包みを開けたとたん大興奮して抱きしめるほど嬉しかったのです。
リチャード・ジノリは、1735年トスカーナの磁器窯から発祥。磁器の歴史は日本や中国のほうが長く1700年代にようやくジノリがイタリア初の窯をつくり、1861年イタリア王国の誕生以降はどんどん工業化が進んだという。1896年には、ミラノの企業家アウグスト・リチャードに工場(San Cristofono)を譲渡。アールヌーボを経て20世紀前半アールデコの時代には、アートディレクターとしてジオ・ポンティが登場し陶工との共同作業が進められる。
ジオ・ポンティ
イタリア建築界の父。1920-1930年リチャード・ジノリ社のアートディレクターとして活躍。磁器素材を使い「モダンアート」の世界を創造しイタリア古典(ギリシャ、ローマ)のモチーフからインスピレーションを得て独自の「ネオ・クラシック」の作品を生み出した。
ミラノの運河沿いの工場 (※写真あり)はどんなだったのだろうとか、ジオポンティがデザインしたものが手元にあると思うとぞくぞくわくわくするのです。
数日間、穴があくほど眺めました。お皿の縁にいい感じのカケ部分があって、その断面もなんどもなんども吸うように見ました。1930年代の素材、当時の電気窯で焼いたものであり、つくる過程が想像できるわけです。素材は密につまった良質な石灰成分ですが焼き温度はそれほど高くなかったのではないかなぁなどと想像をふくらませ。真っ黒になったのはなぜだろう?誰がつかったのかな?なんて考えるのも骨董品の醍醐味です。
思う存分に眺めたあと、カケやヒビをきっかけに破損が進むのをとめる手段を考えました。骨董の味わいを損なわずになんとか維持できないか。そこで、金継ぎをする決心をしたわけです。ときどきお客さまに「金継ぎはやられませんか?」と問われること10年ちょっと。新しい形やデザインを生み出す者としてなかなか修繕という道に踏み込めなかったのですが、このお皿をきっかけに、金継ぎをすることに決めたのです。陶芸職人をつづけるためのもうひとつの道。この皿が私の背中を押してくれたわけです。そこからは早い早い。ずっと調べていた金継ぎ開業講座に行きました。
話しは長くなるので「金継ぎ第一話」はこのへんで。
第二話からは、実際に金継ぎした作品を少しずつ紹介していきます。