「一般論でない何かをみつけるために旅をする」と前置きしながら。
料理教室もレシピも参考になるし大きなヒントにはなるのだけれど。どんなにイージーでもテイスティでも、けっきょく思い出したり見直したりするのさえできないズボラな性分。
おいしくなくても失敗しても、もしかしたら、たくさんの人と同じメニューや味を求めていないのかもしれない。料理にもわたし(またはウチらしさ)を求めていて、言いかえればイタリアの人たち寄りの考えを持つのかもしれない。この5年ほど毎年「旅する土鍋」でイタリアの各地方をまわっていると感じることがあって、文字や量のレシピが少なくてほとんど口頭。「これは我が家のオリジナルだから!」「我が家の味だから!」という見えないレシピがたくさんあるのです。
イタリアの家庭料理、郷土料理を紹介してもらったり(日本のそれを紹介したり)するのですが、とにかくその背景や自分の考えを伝承するべくしゃべるしゃべる。またその逆で、日本食についても質問や感想を言う言う。食材がなければ代用したり、どうにかなるさ!と料理がとにかく軽快。そのわりに鍋の質やサイズが変わるとできないかもしれないと保守的だったり、かわいらしさを醸し出す。たまにレシピがあっても結構テキトウだったり、大いに間違えていたり、欠損していたりする(笑)。それでも「ケ・サラサラ」。
彼らには“教えたいこと”でなく“伝えたいこと”があるからで、そこにはメジャーとマイナー、あるいは損得というものさしを持たない。マイナーという言葉にはネガティブなイメージがあるかもしれないけれど、料理に限らず“伝えたいこと”はマイナーでいいのかもしれない。
⇒次回「旅する土鍋 2018夏」2.それでも地球はまわる につづく
2018年もミラノの師匠アトリエ居候を拠点とし、師匠の海の家リグーリア州、マルケ州での土鍋料理ワークショップ、別の街では土鍋のグループ展、ボローニャ郊外、トスカーナ、そして去年につづきカラブリア州、プーリア州を予定しています。今年の変わり種は、ミラノから北に足を延ばしフランス人の友人が待つローザンヌへ20年ぶりの訪問予定です。