内藤礼の大規模な個展に赴く。
作家の真骨頂と、磯崎新の空間に、ミクロとマクロ、生と死に心象がうかびあがる展であった。91年佐賀町エキジビットで最初に観た作品、直島や豊島で感じた空間、東京のざわめきの中での作品、どれも削ぐ白さに加える自分の自由さが大好きな作品。
巷でよく聴く言葉に、ふといつも立ち止まる“誰かのために”というものがある。自らのものづくりにおいて、どうしてもその感覚がない。そのわりに、決して自分が良ければいいや!という自信や傲慢さは、残念ながら持ち得ていない。まだ淘汰されていないというか。誰かに呼ばれているような気がするからつくっている。そんな感覚なのだ。
その誰かが、誰かなんてどうでもよくて。
内藤礼展にて、ひとり一枚持ち帰れる丸い薄紙(写真上)には、ミクロな文字で「おいで」とある。薄暗い空間で、その作品を観たとき、あまりの遠視が進んでいるために、実はそこに「文字」が書かれているなんて思わなかったのだけれど、なぜか「どうぞ」と明るい世界に手を広げられ、祝福された気持ちが湧き上がったことを覚えている。
帰宅して、モスキート音も確実に聴こえる我が家の青春に「おいで」だよと容易に視認されたときは、彼こそ現代の世の中に祝福されている世代なのだなと感じた。あまりにも経験が更新される速度が高い時代。豊かな経験者が指揮棒をふりかざす時代は終わり、経験者は堂々と壁となり、豊かな表情のモデルとなり、次の世代に「おいで」とサジェストする時代ではないかと考える。チャレンジャーがどんどんパンチングしてもケガをしないために、「おいで」と祝福したい。
内藤礼 -明るい地上には あなたの姿が見える-
2018年7月28日(土)~2018年10月8日(月)
水戸芸術館